講演会(ご案内・ご報告)

第12回講演会

プログラム3
『丸山ワクチン・ウォッチャーとして38年』
ノンフィクション作家
井口 民樹氏


1.丸山ワクチンに救われた末期がんの父

 井口民樹です。(拍手)
 フリーの物書きです。今でこそフリーライターというのは掃いて捨てるほどいますけれども、私が若くに新聞社をキャリアもなく辞めましたときには、この先どうやって食っていくか大変おぼつかないものがありました。そのため週刊誌を初めとする活字媒体で、例えば皇室関係だとか芸能物、社会、事件、さまざまなことを取材してまいりました。その代わり、自分の専門分野というのがないんですね。唯一特別な関心を持ち続けてきたのが丸山ワクチンの問題でした。
 そのきっかけは、私の親父が末期のがんになって丸山ワクチンで救われたということ、それから丸山先生と何度もお目にかかっているうちに、先生のお人柄にすっかり魅せられてしまったことなどが挙げられます。さらに、国はがん制圧計画を声高に叫びながら、がんと共存のできる丸山ワクチンに対しては一切目を向けない、そんな現実に対する疑問が自分の中でどんどん膨れてきたということもあります。
 そんなこんなで、これまでに私は丸山ワクチンに関する本を共著も含めて5冊書いてきました。最近は、この「今こそ丸山ワクチンを!」これは丸山茂雄さんとの共著であります。この本では丸山ワクチンのこれまでの歴史に最近の注目すべき症例、あるいは免疫学上の新しい知見なども加えております。機会があればお読みいただきたいと思いまして、ちょっと宣伝させてもらいました。
 今日の私の演題は「ウォッチャーとして38年」となっておりますけれども、過去の取材を通しての丸山先生との思い出、そして丸山ワクチンがどのようにして生まれたのかという点を中心にお話ししたいと思います。
 先ほどの藤原先生の講演がメインディッシュであるとすれば、こちらはほんのささやかなデザートという感じで味わっていただければと思います。
 まず、私が丸山ワクチンに信頼感を持つようになった出来事からお話しします。
 38年も前のことになりますが、1976年の秋、私の親父が貧血で倒れまして、相模原市の胃腸外科病院に担ぎ込まれました。胃の幽門に8センチのがんができていて、主治医から「なぜここまで放っておいたんだ」と叱られるほどでした。そのときは「あと一月半しかもたないぞ」と言われました。しかし、主治医の先生が手術できるかもしれんと。手術をして転移がなければあと1年半はもつでしょう、そういうことになりまして手術を行いました。しかし、組織検査の結果、リンパや膵臓に浸潤が見られたということで「残念です。あと半年の寿命と覚悟してください」そう言われたんです。
 そこで、主治医にお願いしました。「もう歳ですから、これ以上苦しい思いはさせないで静かに最期を迎えさせてください。だめもとで結構ですから丸山ワクチンを使ってもらえませんか」親父は丸山先生と同じ歳で、そのとき75歳でした。「もう歳ですから」と言ったにしては、今の私よりも若かったんですけどね。(笑)
 そのころ丸山ワクチンを投与する患者の取材をしていまして、皆さん副作用がないという点が共通点としてあったことを私は信じておりました。主治医の先生は「あんなの毒にも薬にもならない、ただの水ですよ」と言いながらも、一応承諾してくれたんです。
 それで、この親父がびっくりするほど元気になりました。退院後、充実した5年間を過ごしました。1人でバスツアーに参加してあちこち旅行して回りましたし、東北旅行、北海道旅行、それから先祖の墓参りで岡山県の奥地まで、随分いろいろ回りました。手術のときに3,000cccの輸血を行っていましたので、その影響で肝炎があり、肝硬変で80歳で亡くなりましたけれども、随時検査をしてくださっていた主治医が「がんの再発はなかったんだよなぁ」と、あとあと不思議がられておりました。
 この親父のことを書いて、81年に本にしたんです。書くときに、主治医に「丸山ワクチンが効いたんでしょうか」と尋ねると、口をもぐもぐさせながら「自己免疫力で自然治癒した例もあるからな」とおっしゃいます。私は組織検査の病理診断書をコピーしてもらって、病理の専門家、佐々木研究所の佐藤博先生に見てもらいました。吉田富三の右腕だった方です。佐藤先生から「これは立派にひどいがんですよ」と保証されました。「元気になれたのは自然治癒でしょうか」という問いには「丸山ワクチンがあって自己の免疫反応を高めた、そう考えるしかないじゃないですか」と明快におっしゃいました。このとき書いたのが「ガンが消えた」という本でありまして、「丸山ワクチン追跡レポート」というサブタイトルをつけています。
 もうその出版社も存在しませんけれども、その出版直後、丸山先生との間であった強烈なやりとりが私の脳裏に今でも焼きついております。



2.私が丸山先生の逆鱗にふれたとき

 丸山先生からも取材をしていましたから、本ができると真っ先に研究室まで届けに上がったんです。先生はにこにこといつもの穏やかな笑顔で受け取ってくださり、「後でゆっくり読ませていただきますよ」とおっしゃった。そしてその晩、私が相模原の親類の家におりましたら出版社の人から突然電話がかかってきまして「丸山先生が大変お怒りだ。すぐに電話を差し上げろ」 まだ携帯のなかった時代ですから、先生は随分私を探しておられたんだと思います。電話をしましたら、いきなりこうおっしゃったんです。「出版を差し止めてください。もう書店に出ているならすぐ回収してください」 お声が震えていました。「何か問題がありましたでしょうか」そう尋ねますと「大きな誤りがあります」とおっしゃいます。「あなたね、人の結核菌には猛毒があるんですよ」
 当時、大阪大学の山村雄一学長がBCGの膜壁というところを使ってがん治療剤の研究開発を行っていました。BCGは、パスツール研究所でつくられた牛の結核菌です。丸山ワクチンは人型結核菌がもとです。丸山ワクチンは副作用が全くないのに対して山村教授の薬剤のほうは副作用が強く、何年か後には製薬化が断念されることになります。私がこの両者を比較して書く際に錯覚しまして、「牛型結核菌の副作用は人型結核菌の副作用よりも強い」と表現してしまったんですね。逆だったんです。結核菌で言えば、牛型より人型のほうがはるかに毒性が強いんです。丸山ワクチンに副作用がないということを書こうとして、取り違えてしまいました。猛毒の人型結核菌から毒性を取り除いて副作用のないワクチンをつくり上げた、これはすごいお仕事なんですね。丸山先生ご自身が大変誇りに思っておられたことが、このお怒りでよくわかりました。
 私は素直にお詫びしました。しかし、書店から今すぐ回収しろという要望には従えません。「先生、この本の著者は私なんですよ。内容のミスについて批判されるのは私です。先生は、ばかな間違いをしやがってと笑っていてください。重版されましたら必ず直しますから」そう言って粘り切りました。この本、割と売れまして、当時、丸山ワクチンの本当のところはどうなんだ、それを知りたがっている読者が非常に多かったんですよね。それですぐ重版になって、私は先生との約束を果たすことができました。
 それで訂正した本を届けに伺ったとき、先生から病院前のお蕎麦屋さんでご馳走になりました。「あんなに気にするほどのことはなかったですね」と照れくさそうにおっしゃった柔和な笑顔が忘れられません。先生の逆鱗に触れたのは、この1回だけです。


3.丸山先生の話に耳を傾ける至福の時間

 その5年前に初めて取材でお目にかかったころは、私はジャーナリストの端くれであることを意識して「丸山ワクチンの人気に騙されちゃいかんぞ」と自分に言い聞かせて、かなり身構えていたような気がします。やがてそんな堅苦しい心は丸山先生の方から溶かされていった気がします。普段、日本医大4階の部屋で先生と向き合っていると、何かとても穏やかな気持ちになれるんですよ。部屋から辞去するときは、先生、腰が曲がっておられるのにわざわざエレベーターで下まで送ってくださいます。これはどなたにもなさっていたみたいですが、大変恐縮しました。
 十数年のお付き合いの間には、ワクチン以外のことでもいろいろなお話を伺いました。これからおもしろいお話をしましょうというときは、独特のサインがあるんですよ。にやにやっと含み笑いをして、じっとこちらの目を見詰めるんです。やおら口を開きます。「あなた黒駒の勝蔵をご存知ですか」謹厳実直を絵に描いたような先生から、意外やブラックな名前が出てきてびっくりします。黒駒の勝蔵は、清水次郎長などの時代の甲州の博徒なんです。「私は詳しくは知りません」そう申し上げて先生の話の続きを待つんですが、しばらく黙っておられます。何かいたずらを考えているみたいな楽しそうな口元なんですね。こちらも先を急かしたりはしません。じっと待つんです。言ってみれば子供がお土産の袋が開かれるのを待っているみたいな、非常に楽しい時間なんです。
 先生が徐々に話の辻褄を合わせてくれます。「勝蔵の子分たちが僕の母方の実家で大暴れしましてね、そのとき振り回した刀の傷跡が家のあちこちに残っているんですよ。母の実家は信州金沢の宿で宿屋をやっていました」 これはご自分の生い立ちをユーモアをまぶして話してくださったときのことで、まあほんの一例です。
 「あなた赤坂小梅って人、知ってるでしょう?」そんな古い歌手の名前が飛び出してきて驚いたこともありました。ご自分のお兄さんのことを話されるときに出てきた名前です。お兄さんとご縁のあった方でした。
 先生のお話からは駄洒落や鋭い皮肉、いろいろと飛び出してきましたけれども、先生のお弟子さんから伺った丸山語録には、こういうものがあります。「若い人たちは、実験をして2つの結果が出た場合、必ずきれいなほうをとる。でも、本物はそうではない側にあることが多いんですよ」含蓄のある言葉です。
 こういうものもありました。「甘んじてバスに乗り遅れることも学者の見識である」 研究者の多くがバスに乗り遅れるなとばかりに時代の流れに迎合するのですが、丸山先生は時流に流されない、権威に追随しない、一人己の信じる道をこつこつと歩かれた気がします。
 もっとも、自分を理解してくれた方のことを話すときは、ちょっと恥じらいながらも非常に嬉しそうに話されました。後でも触れますけれども、丸山ワクチンは初め皮膚結核を治療するために作成されて、戦後の皮膚科学会で発表されるのですけれども、学会の長老であった新潟医大(後の新潟大学医学部)の橋本喬教授などは、丸山先生の研究を絶賛した上にこんなことまで言ったそうです。「いつの日かがんを解決してくれる人がいるとすれば、それは丸山君かもしれない」と。
 丸山先生は長老方には大変かわいがられたと、ご自分でもおっしゃっていました。しかし、年代の近いライバルたちからは、いろいろ妨害を受けたようです。丸山ワクチンは肺結核の治療でも評判をとるのですが、学会では「皮膚科の医者が肺結核の分野に口を出すな」と言わんばかりのいじめがありました。それが後のがんにおいても「私立医大の、それも皮膚科の医者にがんのことなどわかってたまるものか」という嫌がらせにつながるわけです。科学とは無縁な差別意識というか、ジェラシーのようなものが医学界の昔のエリート層にはあったのではないでしょうか。
 丸山先生がなぜ皮膚科の医者となって丸山ワクチンというユニークな薬を発明するに至ったのか、その辺をお話ししたいと思います。



4.病弱な少年が皮膚科の名医になるまで

 「皮膚は身体の窓である」 これは丸山先生が皮膚科の講義のときにまず発する言葉でした。こう続きます。「皮膚の一部分が、実は生命体の全体と深いかかわりがあるんです。部分を軽んじる者に人の生命を扱うことは許されません」 実に深遠な言葉です。丸山先生は全体の中の小さな部分、多くの人から無視されがちなマイナーな存在、そういうものに注目してこられた、そこに先生の研究成果、あるいは医師としての生涯を貫いた基本姿勢があったように思われます。
 その背景には、先生ご自身の大変多感な少年時代がありました。
 丸山先生は1901年11月、長野県茅野市、当時の金沢村で生まれました。さっきも触れましたように、お母様の実家は旅館でした。お父様は学校の先生。お姉さんが1人いて、千里さんは5男、末っ子でした。経歴を丁寧に話していきますと時間が足りなくなりますので、お手元に配りました簡単な年表で補っていただきたいと思います。
 その年表にはございませんけれども、21歳年上の長男がおりました。一高に進んだ秀才でしたけれども、全寮制にもかかわらず夜中に人力車で芸者連れで帰ってきたりするので、退学処分になってしまいました。眉目秀麗、大変にいい男だったそうです。性格も太っ腹で、芸者にも事業にもどんどん金を注ぎ込んでいきました。丸山家はこれで家運が傾くんです。
 千里さんのすぐ上の兄、正香さんは親類の松原医院の養子となって、名門の諏訪中学、一高、東京帝大医学部へと進みます。
 千里さんは孤独でした。経済的な理由で中学に進めず、尋常小学校から高等小学校に上がります。まもなく、東京で事業をやっていた長男が「学費を出してやるから」と言うので上京することになりました。私立日本学園中学に入ります。中学生のときに相次いで両親を亡くしました。自分は肺結核に侵されます。中学卒業後は信州の松原医院で療養しました。「千里は30歳までもたんだろう」というのが周りの見立てだったそうです。丸山先生は、私にも「僕は薬包をつくるのが上手なんですよ」と何度かおっしゃったことがあります。松原医院で、薬を患者に渡すためにハトロン紙を千代紙みたいに折って袋にするわけですね。「将来はここで薬局の手伝いでもしようか」そんな希望しか持てない鬱屈した少年時代でありました。
 やがて、兄・正香さんの勧めで日本医大の前身である日本医学専門学校に進みます。途中ここでも結核を再発したりしまして、卒業したときは27歳になっていました。皮膚科泌尿器科を選んだのも体力を考えてくれた兄のアドバイスです。「千里は外科は無理だな。内科、産婦人科じゃ夜中に叩き起こされる。耳鼻科は手術が細かいしな。まあ眼科か皮膚科、うん、皮膚科がいいだろう」 当時は皮膚科と泌尿器科は1つの診療科目だったんですね。ちなみに、松原先生は内科でした。
 34歳で結婚されます。伴侶となられた夏さんは、当時、社会大衆党の党首だった安部磯雄の末娘です。安部磯雄は清廉なキリスト教徒で、だれもが認める人格者でした。早稲田大学に野球部をつくったことでも有名です。また、男女平等論者で、明治のころから売春禁止運動の先頭に立ってきた方でもあります。
 夏さんは、3つ違いのお姉さんが松原正香さんと結婚されていまして、その縁で丸山先生と知り合うわけなんですが、この結婚には、初め長女の方などが賛成ではなかったようです。「丸山さんの人柄は申し分ないんだけど、仕事がねぇ」と長女は口籠もるんです。当時、巷には、安部磯雄が憂えていましたように性病が蔓延していました。丸山先生が勤務する皮膚科泌尿器科の医師たちは、来る日も来る日も淋病患者の尿道を洗浄する仕事に追われていたそうです。「夏っちゃん、それであなたいいの?」と長女が気遣うわけなんです。しかし夏さん、「本人が悪い遊びをしているわけじゃないし、丸山さんはお医者さんなのに全然威張ったところがない。そこが好き」そう言って千里さんとの結婚の意思を貫いたのでした。



5.結核菌から有害成分を取り除く―丸山ワクチンの発想

 さて、丸山ワクチンの話になります。さっきも言いましたように、最初の目的は皮膚科にやってくる皮膚結核の患者たちを治すことです。結核の陰性、陽性を診断するツベルクリン反応がありますが、そのツベルクリンからヒントを得てつくられたことはご存知かと思います。ツベルクリンは、結核菌を発見したロベルト・コッホが結核ワクチンとして開発したものでしたが、結核菌から毒性を除去できず、治療薬としては失敗しました。丸山先生は、これから毒性を取り除く方法はないだろうかと考えたわけです。そこで、東大伝染病研究所から人型結核菌の株を分けてもらい、菌を培養するところから研究を始めました。
 戦時中、1944年のことです。先生は、川崎市丸子にある日本医大の附属病院におられました。
 菌を煮詰めて、その成分から蛋白を取り除くのですが、現在、日本医大で丸山ワクチンの研究もなさっている微生物学・免疫学教室の高橋秀実教授によりますと、菌を煮詰めるという発想、そして蛋白を有害成分だと見極め、滓(かす)に有効成分があるとした発想、これはすごいことだとおっしゃっておられます。もう少しで完成というところに召集令状が来まして、研究が一時中断します。



6.ある皮膚結核の女性患者と丸山先生

 ここで、皮膚結核に悩まされてきた1人の女性患者と丸山先生とのエピソードを紹介させていただきます。
 土方(ひじかた)久子さんという昭和3年日野市生まれの女性です。小学校のころ、鼻の頭ににきび状の赤い斑点ができました。なかなか治りません。女学校時代は顔から大きなマスクが外せませんでした。後でわかるのですが、尋常性狼瘡という皮膚結核でした。「ロウソウ」の「ロウ」は「狼(おおかみ)」、「ソウ」は「瘡(かさぶた)」と書きます。字も難しいのですが病気も大変厄介でした。赤い斑点が、やがて楕円形にどんどん広がっていくんだそうです。
 土方さんは女学校3年のとき、丸子の日本医大病院に行って丸山先生と出会います。先生が丁寧に診てくださって、当時、結核の特効薬かと学会で注目されていました新薬セファランチンを出してくれました。「きちんと飲めば効くはずですからね」と、先生が諭すようにやさしく飲み方を教えてくれます。ところが、副作用が強くて結果的には全く効かなかったそうです。丸山先生はこのように効かない薬の現実を臨床の現場で診てきたことから、ご自分のワクチン開発に一層熱が入ったのではないかと、これは私の想像です。
 丸山先生が兵隊にとられたので、土方さんは別の病院で放射線治療を受けます。これが裏目に出たようでした。皮膚の組織が破壊されて、顔一面にザクロを割ったような真っ赤な潰瘍がじくじくと広がっていくんです。二目と見られない顔です。女学校を出ました、終戦になりました、でも、周りの人が「気味が悪い」と怖がりますから外へ働きに出ることもできません。清瀬の結核療養所を訪ねて、働きながら治してもらおうとしますが、「病人は働かせるわけにはいかない」と断られました。
 では尼さんになろう、修道院に行きます。やはり断られましたけれども、富士山の麓でフランス人神父が経営するハンセン病の施設があることを教えてもらいました。母親と水杯を交わして家を出ました。施設に着くと、まず検査。検査の結果、「あなたはハンセン病じゃない、だからここでは受け入れられない」と言われます。ここは入所者も世話をする人も皆さんハンセン病だったんですね。土方さんは、まだ18か19歳です。絶望して自殺まで考えたそうです。
 そのときふと、自分の病気を一番親身になって治療してくれた丸山先生のことを思い出します。彼女は苦しい胸のうちを手紙に綴りまして、丸子の病院宛てに出しました。返事は千駄木から来ました。丸山先生は皮膚科の教授となって本院におられたのです。
 昭和23年3月8日─と、彼女ははっきりと日付を覚えておられます。千駄木の日本医大を訪ねた日です。焼け跡のバラックの中を丸山先生が彼女を塩田学長のところへ引っ張っていきました。「学長、この方がこの前お話ししました土方さんですよ」なんと、彼女の仕事のことまで丸山先生が学長に頼んで用意してくれてあったんですよ。戦災で焼けた大学を再建するため、同窓会がOBたちに復興資金の寄附を呼びかける、そのスタッフの一員として彼女は雇われたのです。
 土方さんには、職場のお弁当の時間が悩みの種でした。マスクを目立たないようにちょっとだけ上げて、麺類を1本1本すすったそうです。
 勤務の傍ら週に1~2回、丸山先生の外来で診察を受けます。マスクを外して素顔を見せるのは、世の中で丸山先生たった1人でした。そして先生のつくるワクチンを注射してもらいます。記録では、丸山先生は1946年春あるいは47年と、何回かの皮膚科学会で皮膚結核の治験例を発表しまして大変反響を呼んでいます。しかし、私が土方さんから聞きましたところでは、彼女が投与を受けたワクチンは、まだ濃度の高いものだったそうです。日によっては熱が出ることもありました。彼女は日記をつけていまして、「今日は三十何度の熱が出た。頭が割れんばかりに痛かった」などと注射後の様子を記していました。そして、次に先生のもとを訪ねるときにその日記を見せます。後で先生から「濃度を工夫するのに随分役に立ちました」そう礼を言われたそうです。
 だんだん低い濃度になってから、土方さんの難病はきれいに治りました。きれいにとは言っても、それは結核が治ったということだけでして、顔には瘢痕がまだ焼け跡のように残っています。マスクは脱げません。土方さんは形成外科の手術を受ける決心をします。その手術の段取りをつけてくれたのも丸山先生でした。おかげでお母様が亡くなる前に、ツルンとなった顔を一目見せることができたと言います。
 土方さんは、現在85歳です。非常に明るくてお元気で、この間までは毎日1万歩の散歩が日課だったと伺っています。暗かった青春時代を取り戻すように、今はマスクを一切つけないそうです。今日はこの会にもお出でいただいていると思うのですが、もしいらしたら土方さん、お立ちください。

土方さんが立ち上がって挨拶。「土方でございます。丸半世紀勤めさせていただきまして、今はこんなにきれいになりました。ありがとうございました」(拍手)

どうもありがとうございました。



7.がん免疫療法の大発見は、ハンセン病療養所で

 丸山ワクチンががんの免疫療法剤として登場するには、さらに20年が必要でした。丸山先生は1947年から20年間、東村山にあるハンセン病療養所の多磨全生園へ毎週金曜日に通われました。戦後、結核にもハンセン病にも特効薬が生まれていましたけれども、ハンセン病患者たちの神経障害に丸山ワクチンはよく効いたんです。ハンセン病患者の悩みは、熱い、冷たい、痛いなどといった感覚がなくなることです。丸山ワクチンを打つとこうした神経が蘇るそうです。「火傷を避けられる。暑いときにはちゃんと汗が出る。大きな救いでした」と私は全生園の患者さんから直接聞いたことがあります。
 今「患者さんから」と申しましたけれども、正確に言うと、全生園に住む「元患者さん」ということです。ハンセン病は、かつてらい病と呼ばれて、大変恐ろしい病気であると誤解されておりました。それで、病気が治っても世間には出ていけないんです。生涯をここで暮らして、ここに骨を埋めました。
 今は町の人たちとの交流もありますけれども、昔は隔離された施設ですから、不便な場所です。丸山先生のころは、西武線の秋津駅から雨の日には泥んこになる道を30分余り歩くんです。それを雪の日でも真夏の炎天下でも、一度も休まれずに20年間続けられました。先生の意思の強さには本当に頭が下がる思いです。先生ご自身は「私が愚直だったからですよ」と謙遜されていましたけれど、この愚直な患者思いの精神が大発見につながるんです。
 結核菌やらい菌ががんに対する免疫をつくる、秋津駅で閃いたこの大発見のことは、丸山先生の著書にも出てまいります。私は、国立ハンセン病研究所の先生から伺った話も交えて、ちょっと順序立てて話してみます。
 1956年秋のある日でした。全生園の火葬場の煙突から煙が出ていました。亡くなった方はがんだったと丸山先生は聞きました。施設と隣り合って国立ハンセン病研究所があります。そこに福士勝成という病理学者がいました。丸山先生が「ここにはがんの患者もいたんですね」と呟くと、福士先生が答えます。「亡くなった人の解剖をやっていますけれども、がんは随分多いですよ。ハンセン病の人はもともと免疫力が弱いですからね」丸山先生は、変だなと首を傾げました。「僕はここで10年ほどハンセン病患者を診てきましたけど、がんを併発している人にはまだお目にかかったことがないんですよ」 丸山先生が見てきた目と福士先生の解剖所見とが違うんです。
 次の週、福士先生が統計表を用意してくれました。それによると、死因ががんというのは確かに多いけれども、いずれも高齢者でした。丸山先生「ははぁん」と思いました。「これはハンセン病の元患者たちだな」と。彼らは、体かららい菌が消え去っても差別のせいで社会復帰ができない。施設で生き続けなくてはいけません。そうして暮らしていくうちにがんが発病する。逆に言えば、体の中にらい菌があるうちはがんにかからない。つまり、らい菌が免疫力を高めているのではないか、丸山先生はそう考えたんです。
 社会から「らい病」と言われて遠ざけられていた患者たちにも日ごろからほかの患者同様に丁寧に接してこられた、そういう先生でなければこんな発想は生まれなかったと思います。研究室でパソコンだけと睨み合っていては、こうはいかないということでしょう。
 らい菌は結核菌と同属で、同じ抗酸菌です。丸山先生は、それならば結核菌についても同じことが言えるのではないかと考えまして、結核療養所で調べてみました。やはりそうでした。結核菌があるうちはがんにかからない、結核が治ってきたらがんがのさばってくる。すばらしい発見でした。この推論に間違いがなければ、結核菌抽出物質の丸山ワクチンを注射してやればがんに対する免疫力を高めることができる。がん治療に役立つ。先生もこのときばかりは興奮なさったそうです。
 これを機に、がん治療に向けた研究が進められるのですが、初めのうち動物実験はうまくいかないし、外科や内科の先生と違って丸山先生はがんの患者を持っているわけではないので、研究はしばらく中断しました。
 丸山ワクチンによるがんからの生還者第1号は中野区の胃がんの主婦でして、この劇的な話は私も取材をして書いたことがありますが、実は知られざる第1号がいたんです。満1歳の赤ちゃんでした。
 1964年、茨城県鹿島の若林三圭先生という院長さんがおられた病院です。リンパ性の白血病でもう手の尽くしようがなくなった赤ちゃんに、丸山ワクチンを最後の手段で使ってみることにしたんです。結核患者のために置いてあったもので、副作用がないことはもうわかっていました。丸山ワクチンのB液、薄いほうですね、これを0.5ccという微量で1日置きに注射してみました。1カ月足らずで赤ちゃんから黄疸症状がとれて、どんどん回復していきました。そして1年後に退院しましたら、もうその後、通院しなくなってしまいまして、したがって追跡調査ができていないということなんです。
 これをきっかけに、若林先生は末期の肺がん患者、あるいは胃がん患者にも試して延命の効果を得ることができました。そして若林報告をきっかけに、あちこちの内科や外科の先生たちが、もう抗がん剤も使えない末期のがん患者に丸山ワクチンを使うようになったわけです。驚くような症例が積み重ねられていったということです。
 症例が集まったところで、丸山先生は1966年に論文を発表されます。結核菌をもとにしたがん免疫療法というのは、丸山先生が世界で最初となりました。



8.逆境を耐え抜いた丸山先生と丸山ワクチン

 医学界では、ご存知のように丸山ワクチンは全くの異端児扱いでした。結核菌ワクチンでがんを治療するという常識から大きく外れた発想には、日本医大の内部でもひそひそと非難の陰口が聞かれたそうです。 丸山ワクチンに対する差別とかジェラシーなどのほかに、製薬業界、医学界、官界が一体となって既得権益を守ろうとしていたことも大きかったと思います。今日はこの問題にはあえて踏み込みませんでしたけれども、1981年の夏、厚生省が丸山ワクチン不承認という結果を出したとき、普通の薬ならこのまま世の中から消えてしまっていたと思います。しかし、丸山ワクチンを使用する患者の数は現在まで延べ約40万人を数えています。 私の妻も9年前から丸山ワクチンを打ち続けております。卵巣がんを発病しまして、卵巣、子宮、リンパを摘出しました。最初のうちは抗がん剤と丸山ワクチンの併用、その後はずっと丸山ワクチンのみ投与して現在に至っています。心配された再発もありません。大変ありがたいことです。よくぞ丸山ワクチンが私どもの手の届くところにあってくれたものだと感謝しています。
 丸山ワクチンが苦難に耐えて生き抜いてこられた陰には、患者・家族の会の皆様やピュアな反骨の精神をお持ちの医師、研究者の諸先生、多くの方々のおかげもありました。大変ありがとうございます。
 丸山先生ご本人が不屈の先生でした。戦後の1950年代、大学の合併問題をめぐって日本医大の理事長と真っ向から対立したことがあります。ほかの教職員の給料は上がっても丸山教授のベアだけはゼロ、徹底的に冷遇されたのです。しかし、丸山先生は「では、辞めます」なんて短気は起こしませんでした。平然と給料の前借りを申し出に行っては普段と変わらぬ診療と研究の生活を続けてこられたそうです。理不尽な逆境を耐え抜いた強さ、この先生のしなやかな強さが丸山ワクチンのDNAにも刷り込まれていると私は思っているわけです。
 先ほど藤原先生から伺ったようなニューエビデンスを勝ち得るところまで来たわけですから、丸山ワクチンの本領発揮はいよいよこれからだ、そういう感を深めております。
 ご清聴ありがとうございました。(拍手)