講演会(ご案内・ご報告)

第6回講演会

プログラム3
「癌免疫療法の光と影 〜丸山ワクチンを中心に〜」
医学博士
服部 隆延先生


1.はじめに:内科医としての関心は化学療法からがん免疫療法へ

服部 隆延先生  ただいまご紹介いただきました服部でございます。本当は昨年の9月だったですか、篠原先生が先ほどおっしゃったように中井久夫先生という高名な神戸の精神科の教授がお話されるということだったのですが、ちょっと高齢ということと体調が余りかんばしくないということで、おまえやれということで私が話させていただきますが、私も中井名誉教授と同じでことし後期高齢者なんですね、光栄ある後期高齢者で(笑)、もう頭の方も体も大分弱っておりまして、責めを果たせるかどうか非常に心配しております。ただいま日本医大の高橋教授から最先端の免疫の話、特にがんの免疫の話、最後は丸山ワクチンが膀胱がんの治療にどうかかわるかというお話だったのですが、私は丸山ワクチンを始めまして、ちょうどことしで33年になるんですよね。だから私の話は高橋教授のような最先端の話ではなくて、私のこれまでやってきた経験を中心にしてお話をさせていただきたいと思います。

 この10年来、日本では約30万人の人ががんになっているんですね、これは全死因の3分の1というふうに聞いております。そういうことで、がんというのは何とか克服しなければいかんと思うのですが、がんというのは一言でいいますと、“限りなき増殖”なんですね。エンドレス、限りなく増殖と遠隔転移、離れたところへ転移する性質を持っているんですね、それはテロメアーゼというちょっとややこしい言葉なのですが、そういう酵素によって増殖が全然とまらないんですね。

 30年ぐらい前に私は論文を読み感激したのですが、アメリカの微生物学者でHayflichという人がいます。その人は正常の人間の繊維芽細胞、 Fibroblastというのですが、それを代々培養していきますとちょうど60代でとまっちゃうんですね。それががんの場合はもう本当にそういうことはなく増殖していくということで、その点にがんと正常の細胞との違いがあると思います。そしてほとんどの人が老化と一緒にがんになるんですね。

人間の細胞というのはどれくらいあると皆さん思いますか、約100兆あります。がん細胞というのは固形がんの場合10の6乗、100万個、重量単位にして1ミリグラムくらいであれば、我々の体内の免疫力と、p53というがん抑制遺伝子の働きで、先ほど高橋教授が言われましたように、アポトーシス、自殺するんですよね、だから我々はがんがあっても発病しないわけなんですね。

 私ががんの免疫に関心を持ったのは、もう50年近く前になりますが、内科の教室に入る前に病理の教室に2年ぐらいいたときです。教授に言われてI-131というアイソトープを使って甲状腺がんをつくる動物実験をやったのですが、これは簡単にできるんですよね、教授のねらいは交配していって遺伝的に甲状腺がんを発生させる実験で、私はちょっと無理じゃないかと言ったのですが、いや、やってみなければわからないということだったのです。その教授は有名な岡本耕造先生でして、そのころ一生懸命高血圧ラットの交配をやっていたんですね、今も自然発症高血圧というのはもうあっちこっちの研究所で使われております。それと糖尿病の遺伝で実験動物で大分有名になった先生で、最後はがんだということで、私にやれということだったのですが、そんなものとてもできるものではありませんので、2年で退散しました。

 もう一つは、私が初めてがんの患者さんを受け持ったのは、癌研のときなのですが、もう43年か44年ぐらい前でしょうか、63歳の膵臓がんの女性だったのです。癌研に入院してきたときには肝臓に転移していたのです。まだそのとき腹水はなかったんですよ。そのころは免疫なんてことは話が出ませんで、がんの化学療法がちょうど始まったころで化学療法剤、たしかマイトマイシンと、今は使われておりませんがマーフィリンを投与したところだんだん悪くなるのです。腹水が溜まってくるわ、肝臓の転移層が大きくなるわ、それから痛みが非常に激しくなる、黄疸が出てくるということで最後の方にお話ししますけれども、麻薬を使わなければどうしようもないのです。それでわずか6週間でその女性は亡くなったのです。

 私はそのときにがんの化学療法のチームに入って一生懸命やってきたのですが、化学療法には限界があると、それならもう免疫的なことでがんを治すことはできなくても何とか生存を延ばせるのではないかということで、私はその問題にシフトしていったと、そういうことでございます。



2.免疫療法事始め・・・1800年Jennerの種痘・・・

 お手元の私のレジメをご覧いただきたいと思います。

 初めに、「免疫療法事始め」ということでわかりきったようなことなのですが、一般の方も多いのでお話をさせていただきます。

 ちょうど1800年にイギリスの外科の開業医をやっている Jennerが牛痘による天然痘の治療を開始したのが初めてだといわれています。18世紀の後半はヨーロッパの人口の12分の1が天然痘で亡くなっているのです。日本での天然痘はもうちょっと早くて730年代、私が調べたところによると奈良時代ですね、聖武天皇のころに流行ったと歴史の本に書いてありますからご存じの方もおられると思いますが、それから1840年代、江戸時代の天保時代にすごく流行ったんですね。

 Jennerは牛痘、牛の天然痘にかかった人の皮膚を、健康人に植えたところがそれを種痘といって、もう天然痘にかからないと。これは自分の子どもさんにやったという有名な逸話がございます。日本では1840年代に緒方洪庵という人、大阪の蘭方医ですが、緒方洪庵さんがそれを日本で初めてやったのです。幸いなことに天然痘はもう地球から絶滅しておりまして問題ないのですが、次にお話ししますコレラはまだあるようなんですね。

 コレラは19世紀にインドからヨーロッパに侵入しました。1880年にフランスの有名なPasteurがニワトリの弱毒菌を接種して、その後強い毒性のコレラ菌を接種しても発病しないということで、それを人間に応用していったということなのです。Non Reidiveというらしいのですが、日本では「二度なし」ということで有名な免疫学の言葉になっております。Jennerの名誉をたたえて「ワクチン」の名を与えました。その後、ポリオとか狂犬病のワクチンで非常に我々は恩恵をこうむっているということです。



3.癌免疫の証明:溶連菌感染による癌の自然治癒例

 次に「癌免疫の証明」です。レジメに書いてございますように発熱と感染免疫アネルギーが関与すると考えられます。1868年にドイツの Buschという人が “溶連菌によってがんが非常に小さくなる”と、溶連菌というのは丹毒なのです。それともう一つは Coleyというアメリカの方なのですが、“頚部肉腫の患者が丹毒にかかったが自然治癒を来す”と。その後、丹毒の生菌を含まない Coley,s mixed toxinというものをいろいろと改良されて使っているのです。現在も私の友人が向こうへ行ったときの話では、New York Cancer Institute というところで後継者がいろいろやっておられるのですが、アメリカのがん学会は、これは日本もそうなんですが、毒性が強くてとてもじゃないがということで全く評価されていないんですね。

それとこれは私もちょっと臨床に関係したことなのですが、1960年代に金沢大学の岡本肇教授という、もう亡くなられたのですが、溶連菌の研究で有名な薬理学の教授がおられました。その先生が溶連菌でがんを縮小させようという試みをされたのです。先生が非常にユニークなのは溶連菌をペニシリン処理したのです。そして溶連菌の中のストレプトリジンという血液を溶かす毒があるのですが、それを抽出して実験されたのですが、がんに非常に効くということだったのです。

 私はちょうど大学院の仕事が終わったところで、そのとき癌研の院長でした黒川先生に呼ばれて、おまえもちょうど免疫の仕事をやっていたのだから金沢の岡本先生を手伝えということで、金沢大学へしょっちゅう行きました。それで何とかそれが臨床につながったのですが、それが免疫療法剤ピシバニールなんですね。英文の論文も出したのですが、抗腫瘍効果は20%足らずなのですが、たしかにピシバニールを打ちますと生存が延びる患者が結構いるんですね、この薬は1974年に制がん剤として今の厚労省に認可されているのです。この話はまたあとからどうして認可されたかという話をさせていただきます。

 それともう一つは、1966年、Everson Coleというアメリカ人の自然治癒がんについての論文で、これは大きな本がありまして、私も何回も読ませていただいたのですが、その中に胃がんなどもあるのです。もちろん欧米ではメラノームという皮膚がんがたくさんありますから、その症例もたくさん書かれています。

それと1970年、私は早期胃がんをそのころやっておりまして、早期胃がん50例中10例、20%がそのままの状態で2年以上推移して進行しないのです。これはわざとそんなことできるわけがないので、患者さんが手術は嫌だと拒絶されたり、あとからレトロスペクティブに見ると見落としがあったということなのです。しかしその後は説得して、殆ど手術をされたのです。私はちょうどそのときに仙台の消化器学会のシンポジウムで、この話をしましたら質問が出たのです。「じゃあ、服部先生が早期胃がんだったら手術やりませんか」などと、そういう質問が出たので、私はもう怖いですし、若いですから「やります」といったら、もう大笑いになったんですね。今は早期胃がんは内視鏡で簡単に取れるんですね、だから前のように胃を半分取っちゃうとかそういうことはないのです。そういうことがあって私は壇を降りて下へ行きましたら、私の先生が渋い顔して「おまえ、ちょっと言い過ぎじゃないか」と、そうしましたら隣におりました高名な外科医の学長が、「いや、先生のところの若い人は元気があっていいんじゃないですか」と、そういうエピソードがありました。



4.BCGによる癌免疫療法

 次のスライドになりますが、「BCGによる癌免疫療法」です。
 これは一番初めに動物実験を Oldという人が1961年にやりまして、マウスの固形がんとか腹水がんにBCGを投与して腫瘍が消失してしまった、あるいは長く生きたというようなことを報告されました。これも今回お話するに当たっていろんな文献を調べたのですが、どうもBCGを臨床で世界で使ったのは、また恐縮なんですが、これは私なんですね。

 これはレジメに書いてありますように、1967年に20例の進行がん(胃がん、大腸がん)に制癌剤、マイトマイシン(MMC)と5-Fuを使ったあとにBCGを0.05ミリ皮内投与しましたところ、3例に一応効果は認められた。そういうことでしたが、その後亡くなられたのです。私はBCGの免疫療法で治そうというそんな大それたことはその当時は思っておりませんので、私はがんの免疫、網内系機能の研究をやっておりましたので、ツベルクリン反応を見ようと思って、これはだれもそのころはやっていなかったんですね、ツベルクリン反応というのは細胞性免疫を測るパラメーターとして最も良いのです。それもやはり効果があった3例にツベルクリン反応が強陽性になったのです。効果のない人、末期がんの方はツベルクリン反応は出ないのです、陰性なんですね。これはアネルギーの状態ということで免疫反応は非常に落ちていると。

 それともう一つ、レジメには書いてありませんが、早期胃がんというのは健康人と同じように免疫反応が高くなっているのです。それでツベクリン反応は陽性の人が結構いるのです。そういうこともいろんな学会でお話ししましたが、ほかでもそういうようなデータが出ていると、そういうことでございます。

 私が論文を発表したのは化学療法雑誌に日本文で、抄録はもちろん英文なのですが、それと東京大学医師会で出している東京医学雑誌に発表しただけなのですが、このBCGで俄然有名になったのは、1969年にフランスのベルジューフの研究所の Mathe教授、この人は白血病の世界の大権威で知らない人はいないのですが、急性白血病を20例、これは抗白血病で寛解期に細胞が一たん休んでいる、少し休養している患者さん、それにBCGスクラッチ、BCGをこすりつけるのです。そうしましたら8例に再発を認めず、その後もずっと生存していると、そういうセンセーショナルな報告がありました。

 私はちょうどその一、二年後でしたか、学会がありましてパリへ行ったときに、ベルジューフの研究所というのはパリの郊外にあるのです。そこでMathe教授に会いまして、どうしてスクラッチ療法というのはいいのか、そういうお話をしようと思ったのですが、ちょうどMathe教授は急病になって休まれていたので、その下の先生にお話を聞いても、これはプロフェッサーでなければわからないということで、そのまま帰った記憶がございます。

 それともう一つは、1976年、先ほど高橋教授も触れられたのですが、有名な阪大の山村雄一教授、この方は生化学の出身の方で非常に機転の効く方です。BCG-Cell Wall Skeleton、BCGの膜を抽出したんですね、この膜というのは蛋白質の塊でアミノ酸をたくさん含んでいるのです。それを学会で発表したのです。そして山村先生のグループは肺がんでこれを試してみたのです。53例の肺がんで3期、4期と大分進んでいるのですが、100マイクログラムを皮下とか胸腔内に投与したところ、かなり延命が認められるという生存率を発表されたのですが、副作用が非常に強いのです。39度以上の熱は出る、注射の部位に潰瘍はできる、また胸腔内に注射したら痛みがあるというように副作用が強いのです。それで名前は言いませんが、ある製薬会社とタイアップしてこれを売り出そうとしたのですが、中止されたのです。そういう経緯があります。

 それともう一つ、これは故人で余り言ってはどうかと思うのですが、私は俗人ですので言いますが、それから3年後ぐらいに私の恩師でそのころ癌研の名誉院長になっておられた黒川利雄先生にちょっとお会いしたときに、「君、どう思う?」と、黒川先生はそのころ学士院の院長だったんですね、「山村君の Cell Wall Skeletonを学士院賞に推している人がいるが、僕はこんなのは反対したんだ。君はどう思う?」というから、それは先生のおっしゃるとおりでしょう、こんな細胞膜を取り出してやったぐらいで、何がそんなあたいするかと言ったら、「そうだよな、君だってもっと前にBCGやっているんだから」と、そういうようなことがございました。ですが、黒川先生が亡くなるちょっと前に山村先生は学士院賞をこれでもらったそうです。

 現在は、高橋教授が先ほど言われたように、世界でBCGを使っているのは膀胱がんだけなんですね、膀胱がんをTURということで切除して、そのあとに週一回、この大変な量ですよね、局所に80ミリのBCGを注射するのです。80ミリといいますと、丸山ワクチンAは2マイクログラムですが、Bが0.2マイクログラムですか、約8万倍ですからそういう大変な量なんですよ。私は内科の医者ですから経験がありませんけれども、そういうデータを見ますと、これで肺結核になった人がいる、それはそうでしょう、そんな8万倍も入れて、それで高熱もあると。僕は泌尿器科の先生に話したことがあるのですが、よくあなたたちこんなことやっているなと言ったら、「いや、これしか方法がないんだ」と、手術やって再発を予防するためにこれをやって世界中に生存が延びたというデータがあるから、これしかしようがないというから、そんなら丸山ワクチンをやった方がいいんじゃないかと、そういうことを私は申し上げたのです。これが現在行われている唯一の免疫療法なんですね。



5.丸山ワクチンの登場

 次に、「丸山ワクチンの登場」です。レジメにも書いてございますように、1944年に丸山先生が人型菌の青山B株というのをメタノールで不溶性の結核菌抽出物をつくって、「SSM」と名づけられたのです。これがBCGと全く違うのは蛋白成分が全然ないのです。先ほどお話があったようにアラビノマンナンリピットとかマンノースとかそういう多糖類ばかりなんです、脂質もありますけれども。だからこれは全然副作用なんかあるわけないんですよね。

 BCGでなぜうまくいかなかったかというのは蛋白成分のためなのです。それで丸山先生は非常に慧眼のある先生で皮膚結核に投与されたのです。これ化学療法はそのころちょうどストマイが出てくるちょっと前だったですか、ストマイが出た後もこれを使われて皮膚科学会では高く評価されたというふうに私は伺っております。

 そしてこの量が極めて少ない、BCGの100分の1、そんなもののようですね。Aが2マイクログラム、Bが0.2マイクログラムです。それが清瀬の結核療養所とか多摩全生園で結核とかハンセン病の患者さんに非常にがんが少ないということに注目されたんですね。

 それであとから何人かの基礎の学者の人に……山村さんもそうですが、丸山先生は動物実験を全然やっていないのではないかと、それを臨床のデータだけで使うのはちょっとおかしいんじゃないかということを言われておるのですが、丸山先生は動物実験をやられておるのです。ただ、残念なことに、がんの動物実験の専門家が先生の下にいなかった。ここでもしおられたら非常に恐縮なんですが。その後、私どもがやり始めてきちっとした動物実験をおやりになったらどうかということを丸山先生に勧めました。

 レジメにも書いてございますが、東大の薬学部長の水野伝一先生が、Ehrlichがん(マウス)の動物実験をやった。それと、がんの動物実験ではもう日本で一番と言われている吉田富三門下の佐々木研究所の佐藤博先生、これは何十種類の腹水肝がんでやったのですが、AX66という非常に抗原性の強いラットで生存が延びていると。それから先ほどの岡本先生のお弟子さんで薬理学の大家である越村先生の Lewis 肺がん(ラット)。私は越村先生とは懇意にしておりますが、彼は金沢大学の癌研究所の所長です。こういった先生たちが立派な動物実験のデータを出され、もちろん発表しております。そしていずれもこの動物実験というのは抗原性が高くて丸山先生がやられた動物実験は抗原性が低いのだから免疫的にはだめなんですね。抗原性が高く増殖の非常に遅いがん、これは人間のがんのモデルに近いということです。増殖の早いがんにやってはだめなんです。動物実験がうまくいかない。もっとこれを早くやればよかったと、今でもそう思っている人は大分いると思うのです。

 それともう一つは、作用機序をはっきりした方がいいということで、私も前から懇意にしていただいている有名なウイルス学者で、のちに東北大学の学長になられた石田名香雄先生に頼みましたところ、「ゼリアから研究員を出してくれればいいよ、僕のところで」ということでした。石田先生のところの実験ではBCG感作マウスで血中に大量の γ‐Interferonを出すのです。もちろん丸山ワクチンを投与してからですよ。それと免疫で重要な Macrophageの活性化を認めたと、そういうことです。あとから免疫療法剤でちょっと触れますけれども、クレスチンという薬がありますね、そんなのはゼロで増えないんですよ、そういうことで基礎的なデータはもうがっちりしたんです。で、丸山先生は先ほどお話ししたように1946年に皮膚結核に使われたんですね、そのときにこの実験をもうちょっと早くやっておられたら、何も言われないで済んだのです。

 それからもう一つは、川崎医科大学の病理の木本教授がやられた実験も非常におもしろいんですね、それも大分あとのことです。丸山ワクチンを打つとコラーゲンが増殖する、コラーゲンというのは皆さんご存じのように間質にあるコラーゲンが増殖する、そしてがん細胞を取り囲んじゃう、閉じ込めちゃう、そういうようなことを動物実験と同時に大学の乳がんの患者さんに了解を得て手術した組織、丸山ワクチンを打った組織を調べたら、全くがんが消えていた。私もその論文を見まして、先生のお話も聞いたことがあるのですが、非常にこれも興味のあることなんですね、繊維化して閉じ込めちゃう。



6.丸山ワクチンの臨床成績

 次に、「臨床成績」に入りますが、1966年に丸山先生はがんへの投与を開始したんですね、胃がん、肺がん等の末期がん、非常にたくさんの症例なんですが、1,640例やられて47%効果があった。それで日本の学会、癌治療学会とかいろんなところへ先生は発表されたのですが、無視されたとまでは言いませんが、評価は低かった。それは動物実験がしっかりやっていないのではないか、診断判定への不信感というのがあったというふうに聞いております。欧米での国際癌学会で丸山先生が話されたときには、向こうですごい評価を受けたのです。そういうことが向こうの新聞に書いてありまして私も見ました。そのときにフランスの有名なパスツール研究所で、ぜひ、丸山ワクチンの特許権を譲ってほしいということだったのですが、私が伺っている範囲では丸山先生は丁重にお断りをしたと、これはあくまでも日本でやりたいと、そういうようなことがありました。

 次に、私どもは東京地区で症例は少ないのですが、1977年から丸山ワクチンの臨床を始めました。この経過、なぜそうなったかといいますと、1976年に癌研のときにいた私の上の内科部長の古江尚先生から電話がかかってきまして、「実はゼリアから臨床治験を頼まれたんだけれども、僕は君も知っているように薬事審議会の委員だから、まずいから君がやってくれ」と、私は上の先生には特別なことでない限りは余り文句を言いませんので、「どういう結果になっても知りませんよ」と言ったら、「いや、君がピシバニールをやったのだから、そこそこはやれるんじゃないか」ということで、仲間に声をかけました。始めは癌研の仲間もいたのですが、いろんな政治的な配慮で脱落しちゃったんですね。それはともかく我々がやったのは術後再発とか手術不能がんなんですね、それはお手元のレジメにございます図をご覧ください。

 この前、静岡がんセンターの亀谷先生が私どものグラフを引用していただいたのですが、それがこれでございます。SSMとマイトマイシン、5Fuを併用した群、32例です。これは1年生存率が28.1%、私どももびっくりしたのです。2年生存が9.4%、それともう一つはマイトマイシン、5Fuという化学療法だけだと1年が1.5%、2年はゼロという驚くべきデータが出まして、これは化学療法学雑誌に1980年に発表させていただきました。あと、1982年に国際癌学会がシアトルでありまして、これを発表させていただきました。そのときには症例があとから出ましたので120例ぐらいですが、大体同じような結果でございます。私はそれと同時にあとから触れますが、これをやると痛みがほとんどないんですね。痛みがあった人も痛みの消失、食欲亢進、それからほかの消化器症状とか骨髄障害は全く1例もなかったので、我々もびっくりしたようなわけでございます。

 その後、ちょっとあとですが、きょう来られる予定だと伺っておりますが、愛知癌センターの外科部長の中里先生のグループ、東海グループですね、それと東北大学第3内科の後藤教授、その先生方もやられたのですが、抗腫瘍効果は大したことないけれども、たしかに生存率は延びているのがあるという発表をされました。そういうことが大体同じようにあったのです。

 それでまた、もう一つは嫌なことがありまして、後藤教授が出された生存がかなり延びている膵臓がんの症例を、これは慢性膵炎と間違ったのではないかといったのが、桜井さんという薬学出身で臨床を知らない人で審査会の委員長でした。私はよく知っているから、もう亡くなられたので余り言ってもいけないのですが、そうしたら後藤教授がすごく怒られて、それはそうですよ、後藤教授の教室は先ほどからお話ししておりますように黒川先生の教室ですよね、その前には山川教授という日本の消化器学会をつくられた何人かの先生のひとりです。日本で有数な消化器がんの教室なんですね、それを膵臓がんを慢性膵炎と間違えたということは。その後、後藤教授にお会いしたのですが、あの人は温厚な人で私と違って余り言わないのですが、それでも怒っていましたよ、人をばかにするにもほどがあると。

 それと中里先生の方のグループでは、中里先生は統計学が非常にお得意ですから、厳密な統計的なことをやられたのです。化学療法群と丸山ワクチンを足した群。それも審査会の方では封筒法違反とされ、脱落した症例がありますよね。けれども私があとで聞いたところによりますと、佐久間先生という医科歯科の医学部の先生ですが、日本の医学統計の専門家で、これは非常にきっちりしたデータだと、二重封筒法だと、そういうことを言われたのを聞いておりますが、まあ、けちをつければ何でも言えるんでしょうね。



7.丸山ワクチンの鎮痛効果

 次に、「丸山ワクチンを巡る二、三のトピックス」です。
丸山ワクチンは鎮痛効果というのがありますね。これは前から言われているのですが、どうして痛みに効くかということ、私もいろいろ調べたのですが、これはもう二十数年前にその鎮痛効果を調べた先生がおられるのです。基礎の方なのですが、東京都臨床医学総合研究所の羽里博士のグループです。1984年、私も論文を読みましたが、人間の体にはモルヒネ様の物質がだれでも、ここにご来席の皆さんもあるのです。それはエンケファリンといいまして、これはペプチドホルモンというホルモンの一種でだれでも持っていまして、これを体内麻薬と言う人がいます。

 どこにあるかというと脳下垂体、副腎にあるのです。だれでも持っているのですが、なぜがんの患者さんは痛みがあるのかといいますと、私は不勉強で知らなかったのですが、アミノペプチダーゼというアミノ酸を分解する酵素が、ほとんどエンケファリンを分解してしまうので我々は痛みを感じるのです。羽里先生のグループがやられたのは非常におもしろいのですが、丸山ワクチンと同じぐらいの量、1マイクログラムぐらいをずっと使われる。エンケファリンは体内麻薬ですね、それがあれば我々は越したことないですよ、何もモルヒネを使うことはないのですから。正確に言いますと、1マイクログラムでアミノペプチターゼによるエンケファリンの分解を87%も抑制します。つまり、アミノペプチダーゼが悪さという言い方がいいかどうかわかりませんが、それが悪さをしないんで、体内麻薬が残っちゃうんですね。私はそのデータを正確にまとめておりませんが、自分自身で100例以上は投与しておりますが、麻薬は一度も使ったことはございません。

 たまたまそういう方がおられたのかしれませんが、私が持っていました最近亡くなられた患者さんのことをお話ししますと、68歳の方です。2月に亡くなられたのですが、肺がんで7年前に女子医大で手術をされたのですが、小細胞がんでよくもったと思いますよ。それで私のところへ2年前に来られたときには肝臓に転移がありまして、腹水も溜まっていたのです。なぜ、来られたかというと、化学療法を何回やっても苦しいだけで効果がないと、それで先生のことを聞いたからと。私のところからそんなに遠くないのですが、歩いて行ける範囲でしたので、じゃあ、やりましょうということで2年間来られたのです。

 しかしさすがに……そうですね、2月に亡くなられたので、その亡くなる3カ月ぐらい前から食欲が無く気持ちが悪いということで、私のところへ歩いて来られなくなったのです。それで私がずっと行って注射をしてあげるわけにはいきませんので、介護保険へ頼んだらどうかといって介護保険で訪問ステーションを頼みました。そこは看護師さんがいますから、で、看護師さんにお話しして1日置きに注射してもらいました。私のところでは2年間やりまして、そして私のところへ来られなくなって、注射を続けて3カ月後に亡くなられました。その間、痛みは全然ない。訪問ステーションの看護師さんも、「先生、なぜ痛みがなかったんですか」というから、私も知ったかぶりしてエンケファリンを分解する酵素、アミノペプチダーゼを丸山ワクチンが阻害するんだと、「ああ、そんなものですか」とか言っていましたけれども。私は一度もモルヒネを使ったことがございません。もちろん、ソセゴンのような鎮痛剤は使うことがありますけれども、そういうことは一番大事なことだと思うのです。

 自覚症状などというのは大して意味がないなどと言う人がいますが、がんの患者の痛みをとるというのは大変なんですよ、患者さんにとってみればがんが25%縮小したって余りうれしくないんですよ、そんなのは。それが生存につながるものとは限りませんので……まあ、そういうことでございます。



8.認可されない理由

 もう一つ、最後になりますが、生々しいお話をします。なぜ、これが認可されなかったのか。私なんかの仲間と話をしても不思議でしようがないんですよね、1981年の7月10日に薬事審議会が延命効果はないということだったんですね、それはゼリアの方、来ていると思うのですが、ゼリアの対応のまずさなんですね。

 どうしてかといいますと、私はそのちょっと前に黒川先生がちょうどそのころ癌研の院長をやめられて名誉院長だったのですが、薬事審議会の審査の前に私のところへ電話がありまして、「ちょっと服部君、丸山ワクチンのことで君がやっている論文を見たから、話に来てくれないか」というお話がありまして、今はゼリアを退職されているが当時のゼリア開発部次長だった大塚さんと一緒に黒川先生のところへ伺いました。そして「どうなんだい」というから、「非常にこれはいいと思います。化学療法に比べて全く何の副作用もないですから」と。そうしましたら、「実は僕の親戚が田舎にいるんだけれども、これをずっとやっていて調子がいいということで、安心した」と、そういうふうに言われたのです。それで大塚さんも非常に機敏な人ですから、どうぞお使いくださいということで、丸山ワクチンを大分持って行かれた。先生は非常に喜ばれたんですね。黒川先生は胃がんの間接レントゲン車、あれを開発された先生で、その功績で文化勲章をもらっているんですが。その大先生がそういうふうにおっしゃったのです。

 それで私もちょっと調子に乗って、私どものグループだけでなくて中里先生のグループと先生のお弟子さんの後藤教授のグループ、神奈川のグループ、全部で大体同じような延命効果があるというデータを発表しているし、あと石田教授、佐藤博士らの基礎的なきちっとしたデータがあるから全国的な研究会をやりたいと思うのですと、「なぜ、やらないんだ」と言われるから、「いや、それは会長になってくれる人がいないんです」と言ったら、「僕でよかったらなるよ」と、私はびっくりしたんですね、それでちょうどそのころ、大塚に癌研がありましたから、今はちょっと変な方へ引っ越したのですが、帰りに大塚さんと大塚の駅まで歩きながら、「いやーっ、大塚さんよかったなあ、これでもう丸山ワクチンは通るよ」と、だから先生に早急にやっていただきたいということをお話しして、「じゃあ、早く決まったら僕もスケジュールがあるから日にちを決めてくれ」と、そういうことまで言われたんですね。

 そして会社へ大塚さんが持ち帰って、社長に話をするということだったのですが、10日たってもちっとも返事がないのです、1週間か10日でしたね。私が大塚さんに電話をしたら、「いやーっ、ちょっとこれまずいことになって、社内ではやらないということになっている」というから、私が今は亡くなられた前社長伊部禧作さんに電話をして、こういうことで黒川先生から快諾をいただいたと、また黒川先生は、「私が全部このことについて知っているわけではないから、服部君が隣に座っていろんなサジェスチョンをしてくれたまえ」ということで、私でよかったらいつでもさせていただきますと、そういうことで帰ってきたのですというと、社長は「ちょっと待ってください」というのです。

 それで四、五日して私のところへ断りの電話があったのです。そのあと大塚さんに確認をしたのですが、ちょうど薬事審議会でノーと言われる数カ月前の話です。そのとき、「なぜですか」と私がいうと、「もし丸山ワクチンが認可にならないなら、そういう会をやることに対し薬事審議会の先生方が非常に不快な思いをされる。それとある程度会をやるにはお金がかかる」と、そういうことを言うんですね。じゃあ、もうお宅はやらないのかと言ったら、「残念だけどやりません」と。

 僕は本当はあの人は好きだったんです。ずっと前ですが、私の家へ3回ほど来られて長く話していったりしまして、あの人の口癖は「医は仁術、薬もまた仁術になる」と、多糖類のことをあの会社はOTCとか薬局何かで売っている、あれを非常に前からやっていて興味を持っていた。なぜ、あんたのところは丸山ワクチンをやったんだと、興味を持っているからそれをやったんだと、そういうことだったのですが……じゃあ、それならそれで結構だと。

 しかし考えてもみてください。そのころは今と違って医学界というのはカリスマがいたんです、黒川先生ですよね。おまけに学士院の会長でいろんな学士院賞を決める立場にいた人です。その人がその研究会の会長で案内を出して、例えば山村先生などに案内を出して、「いや、これは行きません」といったら……これはもう常識ではできないんですよ、多少封建的なことがあったのですが、がんの世界では生きていけない。私は非常に困って平身低頭して、ちょっと会社の都合でこれは延ばしていただきたいということを、黒川先生にお断りに行きましたら、にこにこ笑うだけで「ああ、いいよ、いいよ」と……そういうことがございました。

 これはなぜ認可されなかったか、製薬会社、厚生省、審議会の委員というのが始めから丸山ワクチンを認可しない方針だったんです、これは私あるところで聞いたんですよ。しかしそれを認可する方法を我々は考えたのにだめだった。私の親しい友人が専務を務めるある大手製薬会社からも丸山ワクチンとの契約について私に相談があったのですが、いろいろ行き違いがあって・・・。その会社は、現在がんの標準治療薬として何百億も売れている制癌剤を出していますね。



9.終わりに

 これはきょう持ってきましたけれども、先ほど井口さんともお話ししたのですが、『愚徹のひと』、これはお読みになった方もおられると思うのですが、文藝春秋から出しましたね、1994年にこの本は出されて、丸山先生はその4年前にお亡くなりになっています。これは非常にいい本ですばらしい伝記ですね。丸山先生の人となりと、あるいは私が今しゃべったなぜ認可されなかったかということを、井口さん流に書かれております。『愚徹のひと』という、これは井口さんがつくった言葉ではないということを書いておられましたが、まさに丸山先生は、愚直に一筋の道をがんの研究に捧げたんですね。

 もう一つ、丸山ワクチンは難治性湿疹、イボ、それから喘息、インフルエンザの予防に効くんですね。これは確かに、そういう方もおると思うのです。私のところの患者さんで、がんの患者さんの奥さんですが、奥さんといっても八十七、八ですが、旦那さんは結腸がんで7年ぐらいやっていて亡くなったのです。で、私にも丸山ワクチンを打ってくれと私のところへ来られた。どうしてだと聞きましたら、主人は一度も風邪をひいたことがない、インフルエンザになったこともないと、私はピンピンしていますが、予防にやってくださいということで、そんなことで日本医大にもらいに行けないので、前から使っていた人が亡くなったり転院して使わなかった人とかが、先生、これ使ってくださいと置いていったのを今、週一回やっていますが、インフルエンザでもこれは大丈夫だからと本人が決めているんですよ。(笑)そしてこれはどういう作用機序かわからない、これは高橋教授のように免疫の大家にその作用機序をもっと研究していただかないといけないと思います。

 最後に私の言いたいことは、がんは身のうちなんですね、だれでも持っているのです。がんと共生することが大事なんですね。そのためには患者さんと注射を打つ主治医が強いきずなで結ばれなければいけない。それを私は思っております。

 最後に、この講演の機会を与えていただいた篠原一先生、ほか事務局の皆さま、文献、データの整理に尽力していただいた丸山千里先生のご次男の丸山達雄さんに感謝をして、私のつたない講演を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)