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No.2

『丸山ワクチンの回顧』


日本医科大学名誉教授 : 丸山千里 Chisato Maruyama

1981年 日本医科大学学内誌第48巻に丸山千里が寄稿した文を同誌の許可を得て転載したものです。



私が結核のワクチン療法について研究を始めたのは昭和19年(1944年)のことで、第二次大戦も末期の頃であった。

結核ワクチンは1890年結核菌の発見者ローベルト・コッホによってツベルクリンという名称で初めて発表されたが、発熱、喀血などの副作用が出現するため残念ながら失敗に終わった。 その後、多数の結核ワクチンが報告されたが、いずれも副作用のため成果があがらず、ツベルクリンと同じような運命をたどる結果となった。
このような経過を経て、結核ワクチンから副作用を取り去ることは不可能ではないかという考えが学会の通念になっていたように思われる。
私は結核のワクチン療法に興味をもち、なんとかして副作用の全く出ないワクチンをつくってみたいと考え、当時としては野望といってもよいような研究に乗り出したのであった。
結局、ヒト型結核菌の加熱溜水浸出液より発熱あるいは出血を招来する物質を取り除く案をたててみた。

そこで、蛋白質系統の成分に目をつけ、除蛋白の方法をいろいろと工夫してみることにした。 除蛋白の研究が進むにしたがい、発熱、出血などの副作用は次第に改善されてきたが、治効作用がそれに平行して好転するとも思われなかった。 このようなときに、いわゆる迷いの生ずるのはやむをえないことで、このへんでずいぶん苦労したのが思い出される。 特に「毒もまた薬になる」という古い言葉がいつも脳裡から離れなかった。そして方法論として除蛋白が正しいか否か、煩悶したこともたびたびであった。

しかし、ワクチンの濃度、注射間隔などを検討しているうちに、発病以来22年経過し、しかも依然として進行状態にあった皮膚結核(尋常性狼瘡)の患者をワクチンによって治癒させることに成功し、第269回日本皮膚科学会東京地方会(昭和21年5月10日)でその患者を供覧して学会の承認を得ることができた。 このような症例が出てくると自然勇気づけられ、やがてそれが自信につながり、次第に好成績がみられるようになってきた。 昭和24、25年頃、戦災後のバラック建ての付属病院に全国から皮膚結核の患者が多数集まってきた情景は今でも忘れることができない。
なお、皮膚結核の一つである顔面播種状粟粒性狼瘡は、ストマイ、ヒドラジッドのような強力な抗結核剤の出現にもかかわらずこれを治癒させることが困難であったが、このような症例にワクチンは非常な効果を発揮し、東大,慶大をはじめ各大学の皮膚科よりワクチンの分与を懇望されたことも愉快な思い出の一つである。

昭和26、27年頃ワクチンの改良は実を結び、副作用はほとんどみられなくなってきた。 しかし、結核の化学療法は全盛時代に入り、ワクチン療法などはもちろん一顧も与えられぬ情勢であった。 幸か不幸か、こうした時期にワクチンが肺結核にもきわめて有効なことが判明するに至った。 すでに、皮膚結核のワクチン療法の時代からワクチンに非常な興味をもち、たえず激励してくださった岡治道先生(当時東大病理学教授、その後結核研究所顧問)より、このワクチンが「肺結核の空洞消失に役立つこと、またレントゲン写真の上でワクチンによって空洞が消失する場合、痕跡をとどめることなく治癒し、化学療法の場合のような石灰化の所見は認められない」とご指摘いただいた。 岡先生による以上の所見はワクチン療法研究上きわめて重要なことであると思う。

私は前述のように、昭和19年からヒト型結核菌よりの抽出物質を用いて皮膚結核、次いで肺結核の治療に手をつけたのであるが、さらに結核ワクチンを使用してハンセン氏病の治療も行ってみたいと考え、昭和22年から国立多摩全生園で当時の園長林芳信先生のご好意により、ハ氏病患者にワクチン治療を行ってみた。 爾来20年にわたって同園に通いその治療成績を検討したが、ワクチンが、特にハ氏病患者の神経障害にきわめて有効であるということを確かめることができた。 この点は私としても会心の成果と考えている次第である。

こうして、私はハ氏病患者の治療を目的に長い間多摩全生園に通い続けたのであるが、たまたま昭和30年頃1,300名にも達するハ氏病患者を収容している同療養所において癌患者の発生が意外なほどまれであるという事実に気づいた。
そこでハ氏病と密接な関係をもっている結核患者の療養所である国立東京療養所を調べてみると、ここでも癌患者の発生がきわめてまれであるという事実を確認することができた。
以上の事実から、結核菌或いは癩菌が多量に存在する個体には癌は発生ないし増殖しにくいのではなかろうかという考えが浮かぶと同時に、結核菌を癌の治療に利用することに考えが及んだわけである。

さて、結核菌を癌の治療に利用するとなるとまず考えられるのは生菌の接種であるが、この方法は危険を伴うおそれがあるので避けることにし、次に死菌について考えてみたが、過去の結核ワクチンについての報告で明らかにされているように副作用の出現という問題があるので、これまた使用すべきではないと考えた。
このように考えてくると、結局私のつくった結核ワクチンは副作用がまったくなく、安全なので、これを使用してみることにした。 いうまでもなく現在市販されている抗癌剤は、大多数のものに副作用(たとえば発熱、嘔吐、下痢、食欲減退、脱毛、白血球減少など)が出現する。 癌患者は本来の癌の症状に加えて前述の抗癌剤の副作用が加わるため、次第に衰弱の度をたかめ不幸な最後を遂げるという例が非常に多い。 しかし、私どものワクチンには抗癌剤にみられるような副作用は全く認められない。 そして、この事実は私に対し反対の立場をとっている学者もひとしくみとめているところである。

最近、免疫療法について、免疫療法剤は本来補助的なもので、他の治療法との併用によって初めて効果を期待することができるといっている学者もいるが、私どもは全く逆に考えており、ワクチン療法単独で好成績をあげることができるものと考えている。また、実際そのような症例を多数経験しているのである。 特に、私どものワクチン療法は副作用のないところから安心して治療を受けることができるため、患者はもちろん家族からも喜ばれている。
なお、強い延命作用のあることも強調したいところで、現在正式に登録した患者の数は12万8千名を越え、これらのうち3年以上ワクチンを継続使用しているものは2,437名、5年以上のものは473名の多数にのぼっている。 私どもの研究施設を訪れる患者は、術後の再発患者、あるいは放射線療法や抗癌剤をやりつくした、いわゆる末期癌患者であることを考えると、その効果は注目されてもよいものと考えている。

次に、故人になられた緒方知三郎先生はご生前私に対し癌の予防について研究するようたびたびご忠告くださった。 しかし私は癌の治療についての研究に追われ、予防の問題と取り組む余裕は全くなかったのであるが、今後はこの問題の解決に全力をあげ、先生のご好意におこたえしたいと思う。